千葉市美術館で開催している「目」による「非常にはっきりとわからない」展と関連イベントのクロストーク「導線の行方」に行ってきました。
「目【mé】」とは荒神明香 氏(アーティスト)、南川憲二 氏(ディレクター)、増井宏文 氏(インストーラー)の3名を中心に活動しているアーティストです。芸術祭などで何度か作品を拝見したことがあり、非常に気になっている存在なので初の大規模個展と聞きとても楽しみでした。
また、クロストークは「目【mé】」の荒神氏、南川氏と哲学者の星野太 氏によるトークで、星野 氏は「現代思想」で寄稿文を拝読して気になっている哲学者の方だったので、無理をしてでもこの日に合わせて行こうと思っていました!
Information
観覧料 | 一般 1200円(960円)(税込) 大学生 700円(560円)(税込) 小・中学生、高校生無料 |
開館時間 | 10:00~18:00 金、土曜日は20:00まで |
会期 | 2019/11/2(土)~ 2019/12/28(土) |
休館日 | 11月5日(火)、11日(月)、18日(月)、25日(月) 12月2日(月)、9日(月)、16日(月)、23日(月) ※11月5日(火)と12月2日(月)は全館休館 |
住所 | 千葉市美術館 〒260-0013 千葉市中央区中央3-10-8 |
TEL | 043-221-2311 |
URL | http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2019/1102/1102.html |
展覧会プレスリリース文
空間を大規模に変容させる表現などで、現実世界の不確かさを人びとの実感に引き寄せる作品を展開し、国内外で大きく注目を集める現代アートチーム「目[mé]」の、美術館における初の大規模個展を開催します。
千葉県の地球磁場逆転地層(チバニアン)や、それらの地質学によって示されるように、未だに原因が解明できないような天変地異の連続の上に、私たちの現実という地表の世界は成り立っています。本展では、展示物に加え、鑑賞者の動きや気づきを含む千葉市美術館の施設全体の状況をインスタレーション作品として展開し、突き放された現実としての美術館に人々を誘います。様々な状況が集積されてゆく動的な展示空間は、訪れる人々が理解していたはずの意味や本質を剥がしてゆくように、当たり前のものとしてどこか見過されているような現実世界を、新たな感覚で捉え直させる機会となるでしょう。
千葉市美術館 HP
展示は1階と7階、8階で行われており、1階は写真可能ですが7、8階は写真禁止です。
いつもなら所要時間の目安を書きますが、この展示はあえて言うなら無限です!時間をかけて滞在することをおすすめします。時間をかけただけ、色んな気づきがあります。ちなみに僕は3時間くらいいました。
チケットには、「会期中ご本人に限り何度でも展覧会へ入場できます。2回名以降にご利用の際は、本人確認のできる証明書をご提示ください。」と書いてあり、作家も時間をかけて何度でも鑑賞してもらうことを望んでいるようです。
展覧会感想
個人的にはネタバレのない状態で、自分で気づいていくという観方のほうが楽しめると思うので、ぼかしながら書いていきます。最終日(12/28 14:00~)のクロージングトーク「目[mé] 非常にはっきりとわからない展について」で作家や制作に関わった人達から制作過程やネタバラシがあるようです。
1階でチケットを購入すると、「AUDIENCE」と書かれた黄色いステッカー(外の柱に大量に貼ってあるヤツですね)がもらえるので、それを自身のみえる位置に貼って中へ入ります。1階は養生をされていたり、工事中のような佇まいです。しかし、これは作品です。(多分…)実際、千葉市美術館は2019年5月から2020年3月末までリニューアル工事をしていて、どこからが本当の工事でどこまでが作品として作られたものかわからなくなっています。
クロストークでも、作家自身「どこまでが作品だったのかわからなくなっていく」という話もありました。
7階8階はエレベーターで上がります。順番はどちらから行ってもいいのですが、結局、7階と8階を行き来することになります。階段はおそらく意図的に使えないようになっています。
プレスリリース文にあるように、現実というものの不確かさや曖昧さ、色んな境界がさっきまではここにあるが、今この瞬間に変わるかもしれないという目眩を発生させるような展示です!
この目眩は荒川修作の作品で体験するような種類の目眩に似ているような気がしました。強いて異なる点をあげるなら、荒川修作は主に<身体感覚>から現実世界の再構築を目指したように思うが、「目【mé】」はどちらかと言うと<知覚>や<認識>から世界を把握しようとしているのではないかと思う。もちろん両者とも、どちらかの極に片寄っているというわけではないし、身体感覚と知覚、認識は純粋に切り離すことができるものでもない。
クロストーク <導線>の行方 メモ
過去作品「たよりない現実、この世界の在りか」、「《Elemental Detection》」、「REPLICATIONAL SCAPER」、「repetitive objects」の紹介をしながら、「目【mé】」のお二人が何に突き動かされて作品を作っているのかを話されていた。
「たよりない現実、この世界の在りか」では、荒神氏の幼稚園時代に、屋上で寝転がって空を見る時に空に落ちてしまいそうな感覚に陥り、周りの友だちの体が地面にくっついているのを確かめないと不安になるという体験がきっかけとなっている。我々は知識としては、地球の自転による力と万有引力が合わさった重力があるからということを学ぶが、それは分かるということとは別だ。もしかしたら明日には重力がなくなって空に落ちていくこともあるかもしれない。こうした、実は不確かで曖昧な世界で、作品をつくることは新しい気づきを形にしていくことでもある。そして何億光年離れている宇宙の果てに行くことは物理的に不可能だが、制作で得られる気づきによって宇宙の果てが把握できるかもしれない。そんなジャンプ力の可能性にかけている、という理解をした。
また、キーワードの<導線>は、人気の展覧会では絵と一緒にたくさんの人の後頭部が見えていたり、腹痛時に観た絵の印象など、鑑賞者の導線によって観え方が変わってくる。
この導線は計算ではつくれないし、予測もできない。これは鑑賞者側に開かれた運動として捉えるべきである。
そもそも、観る(見る)とはなにか?我々はピカソの絵を観た気になっているが、実際に観えているのはほとんどが人の後頭部だったりする場合もある。無意識にフィルターをかけて情報を選択しているのだ。
また、おしゃれな盲目の人の話が例で上がり、目が見えないけれど、服屋の店員の反応を情報として蓄積していき、反応がいい時の服を選んでいった結果、目が見えないにも関わらずおしゃれなファッションであるという。
同じ種類の話で、花は目がないのになぜ色づいているのかという。それは色によって昆虫に花粉を運んでもらったり、光合成をするための細胞の色だったりするわけだが、盲目の人や花の色を考えると、見るということは必ずしも光を捉えることと同義ではないのではと考えさせられる。
ある情報を蓄積して、判断や他との相互作用で変化していくという運動の中に見る、わかるということがあるのではないか。そのように考えると、一般的に我々が捉えている、「理解する」ということは、あることを一元的な解釈に固定して単純にしている運動であるが、「目【mé】」の捉える「見る、わかる」ということはそれとは逆の複雑さや曖昧さの方向へ進むのではないか。
そしてその複雑さや曖昧さ、展示と観客、美術館との相互作用による変化が今回の展示に表れているのではないかと思う。
最後に
兎にも角にも、まずは自分の体で展示を体験するのがよいだろう。もしかしたらどこかで写真を見ることができるかもしれないが、写真ではすごさがわからないし、何よりそれは本当の「見る」行為ではないのだから、まずは体感して、「見る」とは何か、現実とは、確からしさとは何かなどを考えてみるのもおもしろいだろう。