誘惑論序説-フーコーを忘れよう- ジャン・ボードリヤール 著 塚原史 訳 メモ

誘惑論序説

・「語ることが可能なのは、ある意味では、それらはみな今ではもう終わってしまったことだからであり、…」

・「フーコーの思想は、禁止と掟にもとづく権力の、否定的で反動的で超越的な概念を、肯定的で活動的で内在的な概念と、とりかえようとする。」

・「生産することとは、べつの次元、秘密と誘惑の次元に属しているものを、力づくで物質化することだ。誘惑はいたるところに存在し、つねに生産と対立していて、目に見えるものの次元から、何かを引き出そうとする。それは、生産とは逆のやり方だ。というのも、生産のほうは、モノであれ、数字であれ、概念であれ、すべてを明らかな事実に仕立て上げるのだから。すべてが生産され、読みとられたものであり、可視の現実や数字や能率から発生するような状況、全てが力関係や概念のシステムや計算可能なエネルギーのうちに転記されたものであり、すべてが語られ、蓄積され、リストアップされ、調査されているような状況−−そんな状況が、ポルノのなかの性なのだが、もっと一般的にいえば、それはわれわれの文化全体のあらゆる企てがおかれている状況でもある。

・「性的行為が自己目的ではないような文化、そこでは、性行動が、解放されるべきエネルギー、強制された射精、すべてを犠牲にした生産、肉体の衛生的計数化などのあのくそまじめな話題とならないような文化、を前にしたとき、われわれはそれらの文化を理解できないにせよ、なんとなくいい感じをもつのだ。こうした文化は、誘惑と官能の長い過程を維持しつづけており、そこでは、性行動はさまざまなサーヴィスのひとつ、贈与と対抗贈与の長い手続きとなる。性的行為は、避けられない儀礼にしたがって進行するこの相互性の、たまたま生じた一項でしかない。ところが、われわれにとっては、そんなことはもはや意味をもたない−−われわれにとって、性的なものとは、ある種の欲望をある種の快楽において現実化すること以外ではありえなくなっている−−その他はみな「文学」だ、というわけだ。すべてがオルガスムの機能へと結晶する、驚くべき操作。そして、この機能そのものが、エネルギーの実質の物質化なのである。」

・「われわれの文化は早漏的な文化だ。あらゆる誘惑、高度に儀礼化された過程である誘惑のあらゆるマナーは、剥製化された性的命令、欲望の直接的で強制的な現実の背後で、ますます姿を消そうとしている。われわれの文化の重心は、じっさい、ある種の欲望の全面的な剥製化のための場所しかもはや残しはしない、無意識的でリビドー的な経済のほうへ移動したが、この欲望は、欲動の運命をたどるべく定められている欲望、単純で純粋な機械的作用となるべき欲望、とりわけ、抑圧と解放の想像界へとむかう欲望だったのである。」

・「肉体の秘密のなかに、生産的肉体の縛られたエネルギーと対立するであろう解き放たれた「リビドー」を再発見すること、欲望のなかに、幻覚的で欲動的な真実を再発見すること、それはまたしても、資本の心的隠喩を墓場から掘り出すことでしかないのである。 欲望とは、無意識とは、このようなものだ。それらは経済学の残りカス、資本の心的隠喩にすぎない。」

・「すべては、ひとつの円環のなかで交換され、可逆的存在となり、最後には廃絶されることを望んでいる。そして、このことだけが根底から誘惑する。このことだけが快楽であって、権力は理性の、ある種のヘゲモニーを求める論理を満足させるだけだ。誘惑は、べつのところにある。」

・「誘惑は権力より強力だ。なぜなら、誘惑は可逆的な、死にいたる過程だが、権力は価値とおなじで、不可逆的で、蓄積的で、不死のものであろうとするのだから−−権力は、現実的なものと生産をめぐるあらゆる幻想を共有し、現実的なものの領域にかかわろうとしながら、結局、想像界と自分自身についての迷信的世界に落ちこんでゆく。ところが、誘惑は現実的なものの領域にかかわってはいない。それは力の領域にも、力関係にもけっしてかかわってはいない。だが、まさにそのために、誘惑は、権力のあらゆる現実的過程を、そればかりでなく生産のあらゆる現実的領域を、あの絶えざる可逆性と蓄積の破壊−−それらなしには、権力も生産もありえない−−でつつみこむのである。」

・「誘惑は生産より強力であり、性現象より強い。誘惑を性現象と混同してはならない。それは性現象の内的なひとつの過程ではなくて、性現象の価値を全面的に呑み込んでしまう何ものかである。誘惑は、挑戦とせりあげと死の、可逆的で円環的な過程であって、性的なものは、逆に、誘惑のミニチュア的形態、欲望のエネルギーにかんする諸項中に閉じこめられた形態にすぎない。」

・「挑戦は対話とは反対に、非弁証法的で不可避的な空間をつくりだす。挑戦は手段でも、目的でもなく、自らの空間を政治的空間に対立させる。挑戦は、中間項も長期性も知らない。挑戦の唯一の項は、回答か、さもなければ死か、という直接性だ。歴史もそうだが、線上的なものにはみな終わりがあるけれど、どこまでも可逆的な挑戦には、終わりがない。そして、この可逆性こそが、挑戦に驚くべき力をあたえている。」

ボードリヤール の思想 今村仁司VS.塚原史

●『誘惑論序説』のテーマ

・「フーコーの言説というのは結局、権力の言説なのだということです。」

・「ボードリヤール に従えば、フーコーの限界というのは、性、あるいは性的なものは、もはや性的なもののシミュレーションとしてしか存在しえないにもかかわらず、それを性の生産というかたちでとらえているところにある。」

生産とは「モノ」を作り出すということである前にあるものを前に押し出すことだ、そして、秘密と誘惑の次元に属しているものを力づくで前に押し出して物質化することが生産なのだ

・「西欧近代的文化以前の文化においては、性は誘惑と官能の過程であり、儀礼とサーヴィスの過程であった。ところが現在の西欧的文化においては、性は性の生産と同一視されていて、快楽のなかで欲望を実現するという、そのことだけが問題になっている。つまり、すべてをオルガスムの機能に結びつけているのがわれわれの文化である。したがってそこでは、儀礼的過程つまり誘惑の過程というものは、一切無視されている。

「誘惑というものをもしかしたら復活させる手がかりになるかもしれないものとして、…挑戦という概念」

●『誘惑について』

・「「誘惑」は記号と儀礼の秩序であり、世界の人工物を想像しようとする意思である。つまり、自然と生産中心のブルジョワ的な時代と対立するのが「誘惑」である。…結局、「誘惑」とは意味と権力のシステムを挫折させる外観のゲームなのだというのです。」

・「「誘惑」は意味の秩序に対立するものになり、この点から「挑戦」と「誘惑」という概念が非常に近い関係になってきます。」

・「法則−自然法則であれ、価値法則であれ−に支配された交換関係を狂わせるものが挑戦だ、といっています。」

・「「誘惑」と「挑戦」が存在するためには、交換から引き離された記号からなる決闘的な関係の前で、近代的な契約関係が消滅しなければならない。」

・「まず第一の段階は、決闘的関係の段階、これは遊び(ゲーム)と儀礼の関係であって、規則の領域です。その次に出現したのが二極対立的な関係です。これは、弁証法的で契約的な関係であって、法や社会的なものや「意味」の領域です。第三の段階、つまり現在の段階は、それ以前の段階を乗り越えた二進法的な関係になります。二進法的な関係とは、もはや、対立の関係ではなくて、モデル同士の組み合わせ、シミュラークルの組み合わせの関係です。そこでは、もはや対立は失われているし、決闘的な関係も存在しえない。したがって、挑戦は不可能になる。このような二進法的な関係においては、遊び的世界が成立する。この「遊び的」というのは、みずから楽しむということではなくて、モデルの純粋な組み合わせという意味での遊びであり、ここでは、もはや誘惑は不可能となる。

●現代思想におけるボードリヤールの位置

・ボードリヤール によれば、フーコー的権力も、ドゥルーズ=ガタリ的欲望も、リオタール的リビドーも、もはや現代の社会においては意味を失っている」

・「ボドリヤールは…現代の社会を記号体系の閉じた円環と見ているのではないか。すべてが記号的円環のなかで、あたかも鏡の部屋のなかにいるかのように無限の反射運動を繰り返している。その鏡の部屋のなかで人とものとの無限の反射をボードリヤール はシミュレーションと呼んだ。」

・「生産にかかわるあらゆるものが、この鏡の部屋のなかでは全部霧散霧消する。生産も終り、欲望もひとつの生産ですから、それも終り、無意識も生産しますからそれも終り、権力も生産するからそれも終る。」

●誘惑

・「意味の絶滅というのは『象徴交換と死』以来のテーマで、意味というのはもともと蓄積的累積的であって、それは経済的価値もそうであるし、あらゆるものが、いわば意味の蓄積的過程として考えられますが、むしろ、反対に意味の絶滅をするということで現代の社会に挑戦を試みる、それがひとつの象徴交換的実践です。」

●悪の原理

・「「呪われた部分」というのは普通の有用なものの世界から抜け落ちている何ものかです。その抜け落ちた部分というものこそ人間が生きる上に大切なことだ、「呪われた部分」というものを発掘することで至高の生へといたることができなければならない、と。」

呪われた部分の終わり−−訳者後記にかえて

・「知の生産と蓄積と管理をめざす「導かれた思考」に対置される「導かれない思考」、それは、知の剰余エネルギーの激しい、豪奢な消尽にほかならず、この意味で、ジョルジュ・バタイユの、あの「呪われた部分」に対応するものである。「導かれた思考」によって構築されてきたわれわれの知的空間は、この「呪われた部分」によってつねにつきまとわれてきた。意味にたいして無意味を、秩序にたいして無秩序を、創造にたいして破壊をつきつけるこの意思表示(それはまさしくダダ的なものだ)は、価値と意味作用の実現をめざす経済的実践を拒否するという点で、ジャン・デュヴィニョーが「無の贈与」と読んだものに通じており、ボードリヤール のいう「詩的実践」に重なりあっている。あとには何も残らない、言語の消尽−−詩的実践、それは言語の固有のシステムにたいする、「言語そのものによる武装発起」であって、そこでは意味と価値の世界は絶滅するほかはない。」

まとめ、感想等

・ボードリヤール の意味や価値に重きをおき、知の生産と蓄積と管理をめざす思考に対抗するための「誘惑」や「挑戦」という概念が登場する本。ただし、詳細についてはそれぞれ、「誘惑の戦略」と「宿命の戦略」で書かれている。

・語られたものや生産されたものというは、消費されるものをを指していると思われる。

・欲望は早漏的なものに分類されているが、個人的には欲望には刹那的な消費されるものと、継続的な欲望がある気がするのだが、それを誘惑と読んでいるのだろうか?→「誘惑の戦略」でそこらへんを確認したい。

・『「誘惑」は記号と儀礼の秩序であり、世界の人工物を想像しようとする意思である。』意味の秩序ではなく、記号と儀礼の秩序。なにかそれらを通ってしか現れない想像的なものを言うのだろうか?

・「呪われた部分」=「導かれない思考」というものは共感できる。こういうものを建築という物質の隙間に存在させることができるのだろうか?

・意味と価値の世界が絶滅した地平では感覚が前面的に押し出されるのだろうか?